中国における「四人組逮捕」は、1976年10月6日に発生した、一種の宮廷クーデターです。これは10年にわたって中国を大混乱に陥れた「文化大革命(文革)」の実質的な終結を告げる決定的な出来事であり、その後の改革開放路線へと繋がる歴史の転換点となりました。
以下に、その経緯を背景から実行、その後まで順を追って説明します。
1. 背景:毛沢東晩年の権力闘争
文化大革命(1966年〜1976年)の末期、中国共産党指導部は大きく二つの派閥に分かれて激しく対立していました。
文革左派(急進派)=「四人組」 毛沢東の妻である江青(こうせい)を筆頭に、張春橋(ちょうしゅんきょう)、姚文元(ようぶんげん)、王洪文(おうこうぶん)の4人。彼らは毛沢東の威光を背景に、イデオロギー闘争と継続革命を主張し、実務派の幹部たちを攻撃していました。メディアや宣伝機関を掌握していました。
実務派(穏健派) 周恩来首相(当時)や鄧小平副首相(当時)ら、経済の立て直しや社会の安定を重視するグループ。多くの古参幹部や軍の長老たちがこちらを支持していました。
毛沢東の健康が悪化するにつれ、「毛沢東の死後、誰が権力を握るか」が最大の焦点となっていました。
2. 前兆:周恩来の死と天安門事件
1976年に入ると、事態は急速に動きます。
1月:周恩来の死去 国民に人気があった実務派の巨頭、周恩来が死去します。四人組は周恩来の追悼活動を制限し、批判運動を展開しようとしました。これに対し、民衆の不満が爆発します。
4月:第一次天安門事件 清明節(先祖を祭る日)に、北京の天安門広場に周恩来を追悼するために集まった数十万の群衆が、次第に四人組(特に江青)を批判する抗議活動へと発展しました。四人組はこれを「反革命暴動」と断定し、武力弾圧しました。 この事件で鄧小平は責任を問われて再び失脚しますが、四人組が民衆の支持を完全に失っていることが露呈しました。
3. 直接の引き金:毛沢東の死去
1976年9月9日、絶対的指導者であった毛沢東が死去します。 これが権力闘争の最終局面の始まりでした。
後継者・華国鋒の立場 毛沢東は生前、四人組でも鄧小平でもない、比較的穏健な華国鋒(かこくほう)を第一副主席兼国務院総理に任命し、「あなたがやれば、私は安心だ」という言葉を残して後継者に指名していました。
四人組の焦り 毛沢東という後ろ盾を失った四人組は焦りました。彼らは華国鋒を軽視し、自分たちが主導権を握ろうと画策します。具体的には、毛沢東の遺言を偽造しようとしたり、上海で民兵を武装させて蜂起の準備を進めたりするなど、クーデターの兆候を見せ始めました。
華国鋒は当初、四人組との協調も模索しましたが、彼らの露骨な権力奪取の動きを見て、「自分が排除されるか、彼らを排除するか」の二者択一を迫られました。
4. 逮捕計画の策定(「反四人組」連合の結成)
華国鋒は、四人組を排除するために、党・軍の長老たちと極秘裏に連携しました。特に重要な役割を果たしたのは以下の二人です。
葉剣英(ようけんえい)元帥 軍の長老であり、実務派の重鎮。軍に対する絶大な影響力を持っており、華国鋒に四人組の早期排除を強く進言しました。軍を抑える役割を担いました。
汪東興(おうとうこう) 党中央弁公庁主任であり、指導者の警護を担当する精鋭部隊「8341部隊(中央警衛団)」の指揮官。毛沢東の忠実な側近でしたが、江青とは対立していました。彼が実行部隊の指揮を執ることになりました。
この三者(華国鋒、葉剣英、汪東興)を中心に、極めて少数の幹部だけで計画が練られました。
5. 実行:1976年10月6日の電撃作戦
運命の日は1976年10月6日でした。逮捕は一滴の血も流さず、電撃的に行われました。
罠(わな) 華国鋒は、汪東興と協力し、「毛沢東選集第5巻の出版に関する政治局常務委員会会議」を中南海(指導部の居住区)の懐仁堂で開催すると偽り、メンバーを招集しました。
逮捕の瞬間
王洪文・張春橋:会議場に到着したところを、待ち構えていた汪東興指揮下の8341部隊の兵士が取り押さえ、その場で隔離審査(事実上の逮捕)を宣告しました。王洪文は抵抗しましたが制圧されました。
姚文元:政治局常務委員ではなかったため、別の名目で呼び出され、同様に拘束されました。
江青:彼女は会議に呼ばれておらず、中南海の自宅にいたところを汪東興の部隊が急襲し、逮捕しました。
この作戦はわずか1時間足らずで完了しました。
6. その後と影響
情報統制と歓喜 逮捕直後、情報は厳重に統制されましたが、数日後から徐々に「党中央が断固たる措置をとった」という形で伝わり始めました。四人組の逮捕が確実となると、中国全土で爆竹を鳴らし、酒(特に「四人組」にかけて4本足のカニに見立てた酒宴が流行したと言われます)を飲んで祝う、自然発生的な大祝賀ムードに包まれました。
文化大革命の終結 これにより、10年に及んだ文化大革命は事実上終結しました。
鄧小平の復活と改革開放へ 華国鋒は当初、毛沢東路線を継承しようとしましたが(「二つのすべて」)、文革の傷跡を癒やすには力不足でした。やがて、国民の支持を背景に鄧小平が三度目の復活を果たし、実権を掌握します。そして1978年の第11期3中全会を経て、中国は「改革開放」という新しい時代へと舵を切ることになります。
四人組の裁判 四人組はその後、1980年から1981年にかけて特別法廷で公開裁判にかけられました(四人組裁判)。江青と張春橋には執行猶予付き死刑(後に無期懲役に減刑)、王洪文は無期懲役、姚文元は懲役20年の判決が下されました。

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